ここ数年、「からだ」と「こころ」の両面から心理カウンセリング、エサレンⓇマッサージ&ボディワークの学びを通し、探求をしてきました。
その過程で、「からだ」が常にわたしの中で課題でした。
エサレンのティーチャーは、マッサージはからだに「喜びを与えるもの」だと言いました。
わたしは喜びの先にある、人間の「変化」や「希望」「可能性」に関わることを求めていました。
「こころ」にアプローチする心理カウンセリングでは深く深く探求していくとマインドの「理解」に繋がります。
マインドはよくもわるくも巧みで雄弁です。
私自身も心理カウンセリングを繰り返し受けて、マインドの理解が深まるにつれ、手放しや気づきが起きて人生に「変化」や「希望」「可能性」を感じるようになりました。
「からだ」に関しては触れることや癒されることで起こりえる「変化」や「希望」「可能性」を信じていても、どうしても雄弁なマインドと比較してしまう自分がいました。
ここ最近、これまでの学びと自分自身の体験が理解へ繋がっていき「からだ」を癒すことで人生に起こる「変化」や「希望」「可能性」に実感が持てるようになりました。
「からだ」に喜びを与えた先にある気づきに関して書いてみます。
(注)ゲシュタルト療法などの心理療法にも、からだに声をもたせる、対話させるワークもありますが、ここではマッサージに付随するワークのことを指します。
こころの声を聴く
意識の内の顕在意識は5%、潜在意識は95%と言われますが、ほとんどの場合「わたし」だと認識しているのは5%の顕在意識にすぎません。
一つ例にとると、わたしの母は綺麗好きを超えた強迫観念にも似た潔癖症で、常に家を掃除していました。
いつもせわしなく動いていて、抜かりがなく母がゆっくりリビングでテレビを見てる姿なんて思い出せません。
家の中は常に清潔で片付いていましたが、子供たちがご飯を食べていても母がせわしなく床を雑巾がけしているような環境だったので、意識は常に母のせわしない動きとテーブルや床を汚さないようにしなくてはいけないという薄っすらとした緊張感を感じていました。
この環境はわたしにとって生まれた頃からの当たり前の環境だったので、心理カウンセリングの道に入るまではそれが嫌だった、緊張していたなんて思ったことがありませんでした。
むしろ、清潔で片付いた良い環境で育ったのに、嫌だったなんて思うはずがない、思ってはいけないと思ってました。
これが、5%の顕在意識の「わたし」です。
心理カウンセリングでは様々なメソッドで未知の領域である95%の潜在意識にアプローチしていきます。
「清潔な環境で育ったんだから、嫌だった訳がない」という5%の顕在意識の蓋が外れると、意識の奥に奥に追いやってなかったことにした子供のころの「わたし」に触れます。
何十年もなかったことにしてきたわたしに出会うと驚きと共に気づきが訪れます。
「いつも落ち着かなかった」
「いつも緊張してた」
「あぁ、嫌だったんだ」と。
蓋をしていたのはネガティブな「感情」を感じたくなかったからなので、その感情を体験し開放されます。
そして何十年も気づかないようにしてきた「わたし」の本当のニーズに気づきます。
「ご飯はゆっくり食べたい」
「いつもゆったりした気持ちでいたい」
この瞬間が95%の顕在意識の中にいた本来の「わたし」との出会いです。
からだの声を聴く
心理療法系のメソッドでは、マインドの「理解」を伴いますが、ボディワーク系のメソッドではカウンセリングの時のように雄弁には語りません。
ウィリヘルム・ライヒの悲しみ・恐怖、怒りを感じさせなくするために筋肉を緊張させて感情を閉じ込めるという「筋肉の鎧」は有名ですが、筋肉が「いつも落ち着かなかった、緊張していた」と語りかけてはきません。
エサレンⓇマッサージ&ボディワークやロッキングテクニックで、神経系にたくさんの「喜び」の感覚を与えていくと、ふとした時にからだに宿ったネガティブなものに気づきが訪れます。
さっきの子供の頃のわたしを例にとると、子供のころからいつも母の不安や恐れを感じいて緊張していたことに気づき、本当のニーズに繋がってはいましたがある日、身体感覚の気づきにも繋がりました。
自分自身が受け手となっていたロッキングテクニックの施術が終わって、ランチをしていた時にふと身体感覚の気づきが訪れました。
「あれ?さっきまであんなに心地よくリラックスしていたのに、なんで緊張して焦りながらご飯食べてるんだろう」
浅く早い呼吸で、緊張して固くなっているからだを感じると、この身体感覚がまるで皮膚のように自分の「当たり前」になっていることに気づきました。
そして、自然に
「もう緊張しなくていいよ」
「もう急がなくてもいいよ」というからだの声が聴こえてきて、ランチのお蕎麦を食べながらじんわりと涙が滲みました。
大きく深呼吸をして、やっとずっと皮膚のようにからだに張り付いていた薄っすらとした緊張感を手放せることを知りました。
気づきは悟りである
ゲシュタルト療法に「気づきは悟りである」という言葉があります。
気づかなければ、どんなネガティブなものでも「それと共に在る」ことになりますが、気づくことさえできれば新しい選択ができるようになります。
子供のころの小さな「わたし」にはできなかったことを、大人の「わたし」は、手放さないことも手放すことも選択できます。
ちなみに、ネガティブなものは決して悪いものではなく、わたしを長年「守ってきた」ものでもあるので必ずしも手放さなくてもOKです。
どちらでも選択できる自由は、外側の世界を緩やかに変えていきます。
考えて、行動して、人生を良いものにしようと思いがちですが、からだに喜びを与えること、ゆったりと寛ぐことでも人生に気づきと変化を起こせます。
一休みして。
あなたのからだは何を語っていますか?